中国のモノマネと日本のモノマネ

※ヒロシマスタートライン 2011年1月号掲載
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姫路食博2010にて。呉細うどん研究会のお手伝い。

中国(人)によるモノマネが何かにつけて話題になり、時に物議をかもしている。彼らのモノマネはブランド品からアミューズメントもの、はては商号に至るまで広範にわたっているが、私たち日本(人)からすると、めくじら立てるような時もあるが、そうじて微笑ましく大目に見ようとする気分がある。

それは私たち日本人も近代化するに際して欧米のモノマネをしてきたし、古くは卑弥呼の時代から中国を見習ってきたではないか。今の中国は何10年か前の日本と同じだよ、と思うところがあるからではないか。

とはいっても、中国がしているモノマネと私たち日本がしてきたモノマネが全く同じかと問われると、何かしら違いがある。しかも本質的ともいえる違いがあるように思える。では、どこが違うのかと問われると、ウーンと考え込んでしまう。

これについて、かつて、ある中央官庁の広島上八丁堀の局長さん(在外勤務が長かった)から極めて魅力的な解説をうかがった。曰く「中国は〝商人〟がするモノマネ、これに対して日本のモノマネは〝職人〟がする」と。

なるほど、日本のモノマネは時としてホンモノを超え、そして異次元領域へと進化したりする。日本のモノマネの究極はそこへ辿り着くことにある。一方、中国のモノマネは、相当本物に近い物がS級、まあまあがA級、そのようなものがB級で、決してホンモノには到達しない(むしろ到達しようとは思っていない)が、価格は安いというのが彼らのモノマネの究極であるらしい。常にコストおよび利益を睨んでいるから〝商人〟のモノマネということか。

しかし、18世紀までの中国は一貫して世界に冠たる中華帝国で、四囲がみな中国をマネた。それがアヘン戦争あたりからおかしくなって、それからの200年は散々で、品質も品性も何もかも地に堕ちた。数年前、上海で「景徳鎮」の水差しを買って帰ったら、蓋が合致せず使おうとするとカタカタと鳴る。色合いは悪くなかったのだが、このカタカタはもう改善(朱・明時代への復旧)がなされているのかしら(?)

ところで、ホンモノを超える日本のモノマネはコスト無視かというと、そんなことは決してない。私は大学に入った年(昭和39年)「マーケティング論」という科目をとった。

アメリカナイズ(かぶれ?)された教授が「これからは使い捨ての1ドル時計か、1万ドルの孫子伝世高級時計になり、中級品は淘汰されるだろう」と予言したが、これがものの見事に外れた。日本は中級品の品質向上、即ち「品質の良いものをより安く」という欧米人(もちろん中国人も)には及びもつかぬこと(神の領域)に挑戦して見事に成功し、世界制覇を果たした。それは船舶、自転車、カメラ、電化製品等、ものづくり分野において顕著だが、高品質(エコ、環境、健康等の要素も付加した)で日本発の商品、サービスは価格決定までも掌中にした感もある。日本料理やある種の農水物、アニメにおいてもそうである。

こうした高品質(そして恐らく高品性)を求めてきた日本(人)がこのところ少し揺らいでいる。バブルの崩壊で貧乏になったと感じ、人口も減り収入も減って(国の借金だけは増えて)、この国の先行き不安が増大しているためだが、それらは概ね「早合点」、「錯覚」である。わが国の高品質志向は全く衰えておらず、目下の「デフレ」で少し面喰っているようだが生活は決して貧しくなっている訳ではない。中国の拡大・発展はまだ張りぼてだ。

モノマネを超えたところにいる私たちは、さらに品質と品性の向上に励み、これを「文明」にまで引上げるという使命がある(とまでいうといささかオーバーだが)。ここれでポシャってしまっては、日露戦争を戦い抜き、戦後の焼野原から再生した先人たちに申し開きできないではないか。
(22年12月14日 記)

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