ある戦後70年


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二〇一五年は“戦後70年”、いろいろなことがあった。みんながそれぞれの立場や経験からそれについて考えた。私たちは、戦後70年を経た今、歴史の大きな転換点に立っている。ならば私たちはこれからどうすればよいのか ― 残念ながらその答は容易に出てこない。その糸口を求めて、先の戦争、敗戦、戦後の復興・発展・変化をもっと知っておこうという訳である。

 私は昭和20年、敗戦の年に生まれたから、戦後○年と私の年齢は常に同じ。だからどうということはないが、戦争はもちろん知らないし、敗戦後のひもじさ、貧困もそう鮮明ではない。そのあたりのことは、親やおじ、おばなど周囲の大人の話を聞きかじってイメージしているが、あまりに断片的で、いささか正確さにも欠ける。

 おじから聞いた南支~ビルマ奮戦談にしても、父の8月6日被爆談にしても、彼らは全体験を話してくれた訳ではないし、それを聞く側(幼少期の私ら)はさらに心もとない。戦争体験、被爆体験の継承の必要性が叫ばれているが、話す(伝える)側にも聞く(受取る)側にも中々に難しいことがあるように思う。

 そうした大人の話しの中で私の印象に最も強く残っているのは、小学高学年の頃に母から聞いた満州の話である。母は大正9年生まれ、物心のつく頃は、不況~恐慌の世の中で、この窮地打開のため軍部を先頭に大陸進出が盛んだったから、勢い“軍国”少女であったろう。「関東軍」「鬼畜米英」は母から聞いた。それよりも母は“八絋一宇“娘だった。アジア全域を日本文明で照らそうという考え方で、現在では、それは戦前~戦中の日本(軍)の対外侵略を正当化しようとするプロパガンダで、とんでもないものだと一蹴されているが、母の若い頃は誰もが日本によるアジアの幸福実現を信じていた。

 母は乙女心に台湾か満州で教師になって“八紘一宇”の一角を担いたいと純真に願っていた。外地教師の夢は叶わなかったが、満州が住地となる陸軍軍人(父のこと)と結婚して昭和16年だか17年だか満州へ渡った。そして満州の春、野山の草花が一斉に咲き乱れ、えもいわれぬ美しさ ― これこそ天照大神がおわした髙天原にちがいない、と母は思ったそうだ。戦後すぐ三上波夫氏(考古学者)の「騎馬民族征服王朝説」が出てきて、母の直感も満更ではなかった(?)か。それとも母が「騎馬…説」を知っていて(それはないと思うが)、髙天原満州説を言ったものか(母はとうに亡くなっているので確認のしようがない)。

 それはさて置いて、“八紘一宇”には何やらいかがわしさが付きまとうが、先の戦争(の原因) をどう見るかに関わってくるとも言える。たしかに「侵略」の要素は大きいが、台湾・朝鮮・満州・南洋等への日本による近代化支援には目を見張るものがあり、さらに日本軍の進攻は欧米列強による植民地支配の「解放」「独立」に作用したところもあるのではないか。こうした言及は敗戦国にとって今だにタブーであるが…。

 60年も前の母からの断片的な話はこれくらいにして、今日、是非紹介したいのは、こうの史代さんという広島市出身のマンガ家が、お祖母さんから戦前~戦後の呉・広島のことをきちんと聞いて描いた「この世界の片隅に」のことである。主人公のすずさん(作者の祖母がモデル)は大正末年に広島で生まれ昭和19年初に呉の海軍鎮守府の職員に嫁いだ。「銃後の守」を荷う若妻すずさんが、空襲の下で、広島の空にきのこ雲を見て、あるいは玉音放送を聞いて、何を考えたか。すずさんの言葉、それよりも表情の変化がそれを教えてくれる。

 敗戦直後、占領軍もいる中での、すずさんの困惑、その一方での平常心と茶目っ気、そして希望。こういうすずさんたちが敗戦を乗り越えて戦後の日本をつくったんだな、とつくづく思う。
 なお、「この世界の片隅に」は片渕須直監督によってアニメ映画化に着手、いよいよ上映は秋の予定だが、すずさんをとおして戦後の始まりを考えさせてくれるだけでなく、戦前~戦後の呉がスクリーンに忠実に再現されるアニメ映画「この世界の片隅に」、どうぞご期待のほどを。

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